1926〜1927年大正十五年〜昭和二年
- 制度
個人優勝・賜杯制度の確立
幕内で最高成績を挙げた力士を、相撲協会が正式な優勝者として表彰する仕組みを整備しました。
目的・狙い
場所ごとの最強力士を明確にし、個人競技としての分かりやすさと優勝の権威を高める。
関連ニュース
1925年の台覧相撲に対する御下賜金をもとに賜杯が作られました。当初の賜杯は菊の紋章が規則上問題となり、現在につながる賜杯が実際に渡されたのは1927年夏場所からです。
日本相撲協会がルールや仕組みを変えるとき、そこには必ず狙いがあります。放送に合わせて時間を区切る、観客から見やすくする、勝負の公平さを保つ、力士の安全を守る。変更のきっかけには事件や不祥事もありました。年表として並べると、相撲がどんな力に押されて今の形になったのかが見えてきます。
1926〜1927年大正十五年〜昭和二年
幕内で最高成績を挙げた力士を、相撲協会が正式な優勝者として表彰する仕組みを整備しました。
場所ごとの最強力士を明確にし、個人競技としての分かりやすさと優勝の権威を高める。
1925年の台覧相撲に対する御下賜金をもとに賜杯が作られました。当初の賜杯は菊の紋章が規則上問題となり、現在につながる賜杯が実際に渡されたのは1927年夏場所からです。
1928年昭和三年
無制限だった仕切りに時間を設け、土俵中央に2本の仕切り線を置きました。
取組開始までの時間を管理し、興行を予定どおり進行させる。
同年1月にNHKのラジオ中継が始まり、放送時間内に取組を収める必要が生じたことが直接の背景でした。当初の制限時間は幕内10分、十両7分、幕下以下5分でした。
1931年昭和六年
二重土俵を一重にし、直径を現在と同じ15尺、約4.55メートルに広げました。
勝負が早く決まりすぎるのを抑え、土俵際の攻防や逆転を増やす。
昭和天皇が観戦する天覧相撲に合わせて改革されました。「より白熱した相撲を見せるためだった」とする説が有力です。
1932年昭和七年
関脇・天竜ら多数の力士が協会を脱退し、会計の公開、待遇改善、入場料の引き下げ、力士の共済制度などを要求しました。
要求の多くは直ちには実現しませんでしたが、相撲協会の財務、力士待遇、組織運営の不透明さを社会に示した大規模な改革運動となりました。
1947年昭和二十二年
最高成績者が複数いる場合、番付上位者を自動的に優勝とせず、直接対決で決める方式に変更しました。
番付ではなく土俵上の勝負で優勝を決め、公平性と興行性を高める。
導入最初の1947年夏場所で、羽黒山、前田山、東富士、力道山の4人が9勝1敗で並びました。最初の優勝決定戦から4人による争いとなり、羽黒山が優勝しました。
1950年昭和二十五年
仕切り時間を幕内4分、十両3分、幕下以下2分としました。
長い仕切りによる興行の停滞を防ぎ、取組を一定のテンポで進める。
1928年の導入後、1942年、1945年と段階的に短縮され、1950年9月に現在の時間設定になりました。現在は土俵下の時計係審判が時間を管理しています。
1952年昭和二十七年
土俵上の屋根を支えていた柱をなくし、吊り屋根と四色の房に変更しました。
柱で取組が見えにくくなる問題を解消し、観客やテレビカメラからの視界を改善する。
1952年9月場所から実施され、「観客本位の見やすい相撲」への転換として報じられました。同場所では栃錦が初優勝し、場所後に大関へ昇進しています。
1965年昭和四十年
同じ部屋の力士を除き、同じ一門や系統の近い部屋の力士とも対戦する方式に改めました。
対戦相手の偏りを解消し、これまで組めなかった好取組を増やす。
当時の人気低迷を打開するため、元横綱・双葉山の時津風理事長が主導しました。最初の場所では初日に大鵬が玉乃島に敗れる波乱が起き、佐田の山が優勝して横綱に昇進しました。
1969年昭和四十四年
物言いがついた際、NHKの映像を審判団の参考資料として利用するようにしました。
肉眼だけでは確認しにくい土俵際の勝負を映像で補い、重大な誤審を減らす。
春場所の大鵬―戸田戦では、大鵬が勝っていたとみられる映像が放送されながら戸田の勝ちとなり、大鵬の連勝が45で止まりました。「世紀の大誤審」と騒がれ、抗議が相次いだ後、翌5月場所から映像が導入されました。正式には映像はあくまで参考で、最終判断は審判団が行います。
1972年昭和四十七年
本場所の取組中に負傷した力士について、一定の条件を満たせば次の場所を休んでも番付を維持できる制度を設けました。
番付低下を恐れて重傷のまま出場することを防ぎ、治療期間を確保する。
人気力士の龍虎が取組中にアキレス腱を断裂し、長期休場によって幕下まで番付を落としたことなどが、制度導入の契機になったとされています。
1985年ごろ昭和六十年ごろ
両力士が腰を割り、両方の拳を土俵につけてから立つという運用を強化しました。
中腰から片方だけが先に飛び出す立ち合いを減らし、開始条件を公平にする。
1984年以前は拳を十分につけない中腰の立ち合いが多く、協会による「立ち合い正常化」が進められました。その後も手つきをどこまで厳格に判定するかは、待ったの増加とともに繰り返し議論されています。
2002年平成十四年
外国人力士の新規採用について、各相撲部屋1人までとする申し合わせを決定しました。
外国人力士の受け入れ人数を部屋単位で管理し、特定の部屋への集中を抑える。
その後、力士が日本国籍を取得すると外国人枠が空き、同じ部屋が新たな外国人力士を採用できる状態が問題となりました。
2003年平成十五年
取組中の負傷による番付保護を終了し、休場も原則として番付編成に反映する方式へ戻しました。
負傷認定をめぐる不公平感や、制度の過度な利用を抑える。
公傷の適用は1990年代後半から増加し、2001年には年間20例を超えました。「休場力士が多すぎる」と問題視され、北の湖理事長の下で廃止されました。
2007年平成十九年
時津風部屋に入門していた17歳の力士が、稽古や「しごき」と称する暴行を受けて死亡しました。
相撲部屋内の暴力、師匠の監督責任、閉鎖的な指導体制が社会問題化しました。事件後は、親方教育や相談体制を含む再発防止策が求められる大きな転機となりました。
2010年平成二十二年
日本国籍を取得しても、入門時に外国出身だった力士は「1部屋1人」の枠に含めることにしました。
帰化によって枠が空き、同じ部屋に複数の外国出身力士が在籍する状態を防ぐ。
2009年以降、モンゴル出身者4人、中国出身者2人が日本国籍を取得するなど、帰化後に新たな外国人力士を採用するケースが増えていたことから、規制が見直されました。
2011年平成二十三年
警察が押収した携帯電話のメールから、勝敗を事前に調整していた疑いが発覚しました。
相撲協会は調査が終わるまで本場所を開催できないとして、3月の春場所を中止しました。戦後の国技館改修による中止以来で、不祥事を理由とする本場所中止は初めてでした。独立調査委員会による調査や多数の処分につながりました。
2020年令和二年
3月の春場所を無観客で開催し、春巡業なども延期・中止しました。
感染拡大を防ぎながら、可能な範囲で本場所や相撲興行を継続する。
感染者が出た場合は場所を中止するという厳しい条件で春場所が開催されました。その後も巡業や場所の日程、観客数、力士の外出などに特別な感染対策が設けられました。
2021年令和三年
立ち合い成立前に力士が負傷し、相撲を取れる状態ではないと審判団が判断した場合、取り直しを行わず不戦敗にできる規定を追加しました。
本人が出場を希望していても、脳振とうや意識障害が疑われる場合は安全を優先する。
初場所の湘南乃海―朝玉勢戦で、立ち合い不成立後に湘南乃海が頭部を強打して立てなくなったにもかかわらず、本人の意思を尊重して取り直しが行われました。批判を受け、場所終了直後に規則が変更されました。
年や内容は、日本相撲協会の公表資料と当時の報道をもとに整理しています。 「1985年ごろ」のように運用が段階的に変わったものは、変化が定着した時期を目安として置いています。