相撲の歴史 ― 神話の時代から現在まで

相撲の歴史を、神話・伝承の時代、宮中行事だった相撲節会、武士の鍛錬、江戸の興行、明治以降の組織化、そして現在まで順を追って整理します。今テレビで見る大相撲の「見た目」は江戸時代に、「運営の仕組み」は明治以降にできあがりました。

はじめに ― 相撲の歴史をひと目でつかむ

相撲の歴史は、大きく5つの時期に分けると整理しやすくなります。

  1. 神話・伝承の時代 … 『古事記』『日本書紀』に書かれた力くらべの話。史実かどうかは分からない
  2. 宮中行事の時代(奈良〜平安) … 天皇が観覧する年中行事「相撲節会」
  3. 武士の時代(鎌倉〜戦国) … 戦の訓練として
  4. 興行の時代(江戸) … 職業力士が登場し、今の大相撲の形ができる
  5. 組織の時代(明治〜現在) … 協会・国技館・年6場所制が整う

読むうえで、先に3つおさえておくと迷いません。

その1。「起源」として語られる話の多くは、神話や伝承です。 相撲博物館は、有名な野見宿禰と當麻蹶速の対戦について「この闘いは神話で」「実態は『日本書紀』の記述以外には不明」とはっきり書いています。歴史として確かめられた出来事と、語り継がれてきた話は分けて読むのが安全です。

その2。今テレビで見る大相撲の「見た目」は、ほぼ江戸時代にできました。 土俵、番付、化粧廻し、横綱土俵入り。どれも江戸の興行のなかで整えられたものです。日本相撲協会の公式サイトも「江戸時代より続いている土俵入り、化粧廻し」という書き方をしています。

その3。「運営の仕組み」は明治以降です。 今の日本相撲協会が法人として発足したのは1925年(大正14年)12月28日で、当時の名前は財団法人大日本相撲協会でした。年6場所・各15日間という今の日程が固まったのは1958年(昭和33年)で、意外に新しいものです。

なお、日本相撲協会は自らの定款で、この法人の目的を「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」ためのものと定めています。ただし協会自身、2018年(平成30年)の理事長談話のなかで「大相撲にとっての神事とは、農作物の豊作を願い感謝するといった、素朴な庶民信仰であって習俗に近いもの」とも説明しています。「神聖」という一言で片づけず、こうした協会自身の言葉づかいまで見ておくと、実像に近づけます。

神話と伝承 ― 野見宿禰と當麻蹶速の話をどう読むか

結論から言うと、この話は神話であって、史実の記録ではありません。

『日本書紀』の垂仁天皇7年7月7日の条に、次の話が載っています。大和の當麻蹶速(たいまのけはや)が無敵を誇っていたので、垂仁天皇が出雲の野見宿禰(のみのすくね)を呼び寄せて相撲を取らせた。宿禰が勝った、というものです。

勝ち方の伝わり方には、資料によって幅があります。相撲博物館の野見宿禰神社の解説は「互いに足で踏み合い、宿禰が蹶速の脇骨(わきぼね=あばら骨)を踏み折って殺した」とし、同じ相撲博物館の展示解説では「腰骨を折って勝利した」と書かれています。『世界大百科事典』は「肋骨、腰を踏みくじいて勝ち」としています。あばら骨と腰は別の場所なので、どちらか一方に決めつけないほうが正確です。

相撲博物館の展示解説は、この対戦について「この闘いは神話で」と明記し、さらに「いずれも想像で、実態は『日本書紀』の記述以外には不明である」と付け加えています。江戸時代以降、この場面を描いた絵は数多く残っていますが、それらはすべて想像だということです。葛飾北斎は『北斎漫画』で、宿禰と蹶速の取組に土俵や四本柱(しほんばしら=かつて土俵の四隅に立っていた柱)、行司まで描き込みました。相撲博物館は「これらはもちろん宿禰と蹶速の相撲には登場しませんが、北斎は当時大人気だった大相撲のように描いています」と説明しています。

注意したいのは、この話の扱われ方が時代とともに変わってきたことです。相撲博物館は「戦前には史実として信じられていたようです」と説明しています。つまり「昔から神話だと分かっていた」わけではなく、扱いが変わってきたのです。

『古事記』にある建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の力くらべも、相撲博物館は野見宿禰の話とあわせて「相撲史における最初期の事項」と位置づけています。日本相撲協会の公式サイトも、相撲の起源を説明する箇所で「力くらべの神話」「天覧勝負の伝説」という言い方をしており、史実だとは書いていません。

なぜ7月7日なのか。 相撲博物館は「こちらはのちに七月七日に決めたと思われますが、相撲は七月七日に行うものという当時の考えが伝わります」と解説しています。日付が先にあったのではなく、後世の感覚が神話に投影された、という読み方です。7月7日は五節句(ごせっく=季節の節目に設けられた5つの節句)の一つで、この日には相撲によってその年の収穫を占ったり、祈願したり、感謝したとされます。

野見宿禰はのちに相撲の神として祀られるようになりました。東京都墨田区亀沢の野見宿禰神社は、1885年(明治18年)に高砂浦五郎ら相撲関係者の尽力で、津軽藩上屋敷の跡地に創建されたものです。関東大震災と東京大空襲で全焼し、1953年(昭和28年)に再建されました。創建が明治であることからも分かるとおり、この神社は古代から続いてきたものではありません。

相撲節会 ― 奈良・平安の宮中行事

古代の相撲でいちばん記録が残っているのが、宮中行事としての相撲節会(すまいのせちえ)です。

『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、728年(神亀5年)に聖武天皇が諸国の郡司に命じて相撲人(すまいびと)を推挙させ、宮廷で左右対抗の相撲を行わせました。734年(天平6年)7月7日の天覧が端緒となり、810〜824年(弘仁年間)から「相撲節(すまいのせち)」として恒例になり、1174年(承安4年)まで三百数十年間続いたとされます。日本相撲協会の公式サイトは、この時期を「宮廷の行事となり300年続く」と表現しています。

この行事には2つの性格がありました。 『百科事典マイペディア』の「相撲節」の解説によれば、年の後半の始まりにあたって豊凶を占い豊穣を祈る年占(としうら)の神事という面と、地方から強者を集めて天皇に奉仕させる服属儀礼という面の両方をもち、のちには娯楽の意味あいが強くなっていきました。開催日も、はじめは7月7日、のちに7月下旬へと動いています。『延喜式』では射礼(じゃらい)、騎射(きしゃ)とあわせて「三度節(さんどのせち)」の一つに数えられました。

どんな進行だったか。 相撲博物館が所蔵する「相撲節会図」の解説によると、中央で相撲人が向かい合い、その周りに次の役がいました。

  • 相撲長(すまいのおさ) … 相撲人を監督する役。髪や廻しを直したり、取組がもつれたときに双方を引き離したりする
  • 立合(たちあわせ) … 相撲人を立ち合わせる役。左右から2人ずつ出る
  • 楽人(がくにん) … 自分の側の相撲人が勝つと舞楽を披露する

天皇は中央奥の御簾(みす)の中で観戦しました。余興として雑伎や散楽も演じられ、盛大に行われたといいます。

ここで重要なのは、行司がいなかったことです。 『世界大百科事典』は、相撲節会には「勝負を裁定する中立の行司役はなく」、立合という進行係が左近衛・右近衛から2人ずつ出ただけだと説明したうえで、「後世江戸時代の相撲伝書に行司開祖を平安時代におくのは誤り」とはっきり書いています。今の所作の由来を、なんでも古代までさかのぼらせるのは危険だという良い例です。

なお、勝った側の近衛から舞人が出て弓をとり立合舞(たちあいのまい)を演じたことが弓取式(ゆみとりしき=取組の最後に弓を振って行う儀式)の起源だ、という説はあります。ただし『世界大百科事典』も「いわれている」という書き方をしており、確定した事実ではありません。

相撲節会は1174年(承安4年)を最後に途絶えたとされます。ここで「宮中の行事としての相撲」はいったん終わりました。今の大相撲は、この相撲節会が直接そのまま続いたものではありません。

武士の時代 ― 鎌倉から戦国へ

鎌倉時代から戦国時代にかけて、相撲は武士の戦闘訓練として行われました。

日本相撲協会の公式サイトは、この時期を「武士の戦闘の訓練として盛んに相撲が行われた」とまとめています。国立国会図書館の解説も、江戸時代より前の武家社会では相撲が「武士の鍛錬の一つ」だったとしています。

この時代にも、勝負を裁く行司はまだいません。 『世界大百科事典』は、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に見える相撲奉行について「武将がつとめ、相撲大会の監督で行司役はいなかった」と説明しています。日本相撲協会は行司の登場を「戦国時代より」としています。

よく知られているのが織田信長です。協会の説明によれば、信長は相撲を深く愛好し、元亀・天正年間(1570〜92年)に近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えました。

また『世界大百科事典』は、勝った力士に褒美として弓を与えることは信長のときから始まった、と説明しています。今の弓取式につながる話ですが、これも一つの説として受け取っておくのが無難です。

この時期の相撲は、まだ「見せて木戸銭を取る」興行ではありません。勝負を職業にする人たちが現れるのは、次の江戸時代です。

江戸時代 ― 今の大相撲の形ができた

今テレビで見る大相撲の見た目は、この時代にほぼ完成しました。 順を追って見ていきます。

職業力士と勧進相撲

江戸時代に入ると、浪人や力自慢のなかから相撲を職業とする人たちが現れます。そして各地で勧進相撲(かんじんずもう)が始まりました。勧進相撲とは、もともと寺社の建立や修復などの資金を集めるために行う興行のことです。

ただし、日本相撲協会は2018年の理事長談話の注記で「勧進相撲は本来、寺社などの建立、修築の資金のために相撲を催して見物人から寄付金を集めるものでしたが、やがて勧進は名目となり、力士の生計を支えるのが目的の興行となりました」と説明しています。名前は寺社のための募金でも、実態は職業興行に変わっていったわけです。協会は、この勧進相撲が盛んになったのは江戸時代の中ごろだとしています。

国立国会図書館の解説によれば、江戸では1684年(貞享元年)に深川八幡宮で勧進相撲が許可され、これ以後ひんぱんに開催されるようになりました。

なぜ土俵ができたのか

土俵は最初からあったわけではありません。相撲博物館が所蔵する「辻相撲絵巻」(元禄年間ごろ)の解説には、こう書かれています。「この頃はまだ土俵がなく、野原や町の辻で盛んに相撲が行われていた。特に街中での辻相撲は多くの観客を集め、勝負判定をめぐって喧嘩・騒動が多かった」。

幕府は何度も禁令を出しました。相撲博物館は、これを裏返して「相撲が民衆に人気があったことを物語る」と読んでいます。そして幕府は、最終的に勧進相撲の興行を届出・許可制にすることで統制しました。その結果、興行組織の整備・統合が進みます。

つまり、土俵も組織も、「揉め事をどう収めるか」という現実的な必要から整えられていったという面があります。土俵そのものは江戸時代前期に成立したとされ、菱川師宣が寛文〜延宝年間(1661〜1680)に描いた「相撲の図」には、地面に埋め込まれてはいないものの俵が見えます。相撲博物館はこれを「土俵の成立を考えるうえで貴重な資料」としています。

番付の誕生

番付(ばんづけ)は力士の順位表です。相撲博物館によれば、現在のような縦一枚の番付が生まれたのは1757年(宝暦7年)でした。現存する最古の縦型番付は同年10月、浅草・蔵前八幡宮(現・蔵前神社)で行われた江戸相撲のもので、6段構成になっています。

興行場所が固まる

国立国会図書館の解説によれば、興行場所は当初一定していませんでしたが、寛政年間(1789〜1801)以降は回向院(えこういん=両国にある寺)で行うことが増え、1833年(天保4年)に定場所となりました。のちの1909年(明治42年)の国技館も、この回向院の一画に建てられています。

当時の客席は、取組のたびに仮設されるものでした。回向院の境内には、土俵まわりの土間席と、それを取り囲む葭簀(よしず)張りの3階建ての桟敷(さじき)席が作られ、土間席は力士を抱える大名の家臣が占めました。興行の時期には相撲櫓(やぐら)が仮設され、櫓太鼓(やぐらだいこ)は早朝4時ごろ、関取の場所入りのとき、打ち出し(=その日の取組の終わり)後の3回叩かれ、季節の風物詩になっていました。

横綱の登場 ― ただし「地位」ではなかった

横綱が登場するのも江戸時代です。相撲博物館によれば、1789年(寛政元年)に谷風梶之助と小野川喜三郎がはじめて横綱土俵入りを披露しました。

ただしここは誤解が多い点です。当時の横綱は番付上の地位ではなく、免許・称号でした。 国立国会図書館の資料によれば、番付に「横綱」の文字が初めて記されたのは1890年(明治23年)5月場所で、初代西ノ海のときです。地位として協会規則に明文化されたのは、1909年(明治42年)の国技館開設を機とした規則改正のときでした。称号の誕生から地位の確立まで、120年ほど開きがあります。

なぜ1890年に「横綱」と書かれたのか。 相撲博物館が理由を説明しています。初代西ノ海は1890年1月場所で大関に昇進し、場所後に横綱免許を受けました。ところが次の5月場所の番付では、後輩の小錦八十吉が東の正大関に昇進し、西ノ海は張出(はりだし=番付の枠外に押し出された位置)にされます。これに不満を抱いたため、西ノ海に「横綱」と冠することにした、というのが経緯です。制度の整備というより、個別の不満への対応がきっかけでした。

なお、日本相撲協会の「歴代横綱」一覧では初代を明石志賀之助としていますが、出身地の欄には「栃木県宇都宮市?」と疑問符が付いています。国立国会図書館の解説も「初代の明石は実在が不明」と書いています。

上覧相撲と人気力士

将軍が観覧する上覧相撲(じょうらんずもう)も行われました。相撲博物館によれば、大相撲の人気は将軍・徳川家斉の耳にも達し、1791年(寛政3年)に上覧相撲が催されます。1794年(寛政6年)4月にも、浜御庭(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧相撲が行われました。

この時期の人気力士が、谷風梶之助(188cm・160kg、1750〜1795)、小野川喜三郎(178cm・135kg、1758〜1806)、そして雷電為右衛門(197cm・170kg、1767〜1825)です。雷電は1790年(寛政2年)に松江藩松平家の抱え相撲として江戸に初登場し、1811年(文化8年)に引退するまで無類の強さを見せました。数値はいずれも相撲博物館の展示解説によるものですが、江戸時代の身長・体重は測定方法が今と異なるため、おおよその値として読んでください。

興行日数は「晴天十日間」

国立国会図書館の資料によれば、1778年(安永7年)以来、興行日数は「晴天十日間」とされていました。雨が降れば日程が繰り延べられるため、十日間の本場所を終えるのに1か月以上かかることもしばしばだったといいます。この不便さが、のちの国技館建設につながります。

明治・大正 ― 存続の危機と「国技」という呼び名

明治のはじめ、相撲は本当に潰れかけました。 そして今あたりまえに使われる「国技」という呼び名も、実はこの時期に生まれたものです。

なぜ危機に陥ったのか

国立国会図書館の展示資料は、経緯をこう整理しています。

  • 1869年(明治2年)の版籍奉還、1871年(明治4年)の廃藩置県で、藩主の抱えを解かれ扶持を失う力士が増えた
  • 1871年(明治4年)の散髪脱刀令、1876年(明治9年)の廃刀令などで、洋風を礼賛し伝統より近代化を重んじる風潮が高まった
  • 「裸にまわし、ちょんまげ」という姿が「蛮風」と見なされ、相撲を排撃する論が広がった

1876年(明治9年)5月26日の『朝野新聞』には「相撲ヲ禁ズベキノ論」が載り、相撲を「野蛮未開の人民の為す所のものにして文明の人民の為さざる所なり」として、政府に禁止令を出すよう主張しています。同年には東京府が裸体を禁止してもいます。

どう立て直したか

相撲界は反撃します。1876年(明治9年)に力士消防別手組を設置し、街の役に立つ存在であることを示しました。1878年(明治11年)に警視庁から「角觝並行司取締規則及興行場所取締規則」が発布されると、相撲興行は事実上、警視庁の公認となります。これを後押しに相撲禁止論は下火になっていきました。

人気回復のきっかけになったのが、1884年(明治17年)3月10日、延遼館(えんりょうかん=幕末に浜御殿、現在の浜離宮恩賜庭園に建てられた洋風の迎賓施設)で行われた明治天皇の天覧相撲(てんらんずもう)です。国立国会図書館によれば、これは明治天皇にとって4回目の天覧相撲でしたが、規模が格段に大きいものでした。相撲博物館の解説によると、直前に横綱に昇進した初代梅ケ谷藤太郎と大達羽左衛門による二度水入り(みずいり=長引いた取組をいったん中断して休ませること)引分けの大熱戦が評判となり、沈滞していた相撲人気を大いに高めました。

組織の面でも整備が進みます。江戸から続く「相撲会所」が1889年(明治22年)に東京大角力協会と改称し、大阪では1897年(明治30年)に大阪角力協会が発足しました。

国技館の建設と「国技」の由来

「国技」という呼び名の起こりは、それほど古くありません。 国立国会図書館は「その起こりはそれほど古くなく、明治42(1909)年の『国技館』(相撲常設館)開設に端を発するものであるとする説が有力です」と説明しています。

建設の理由は、きわめて実務的なものでした。相撲博物館の解説によれば「雨が降ると順延で延びれば経費がかかり、観客も寒さ暑さに耐えながらの観戦となった。それを解消するために」1906年(明治39年)から建設が始まったのです。1909年(明治42年)6月2日に開館式が行われました。設計は東京駅や日本銀行を手がけた辰野金吾と、弟子の葛西萬司です。

収容人数は大きく変わりました。それまでの小屋がけではせいぜい2000人程度だったものが、一挙に1万3000人にまで増えたと記録されています。同時に、晴天十日間だった興行が晴雨にかかわらず十日間に改められ、幕内力士の十日間皆勤出場もこの年から始まりました。

館名の由来。 完成直前まで「常設館」と呼ばれていました。相撲博物館は、小説家・江見水蔭による初興行の披露文にあった「角力は日本の国技」という文言から、年寄・尾車(元大戸平)が「国技館」と命名したと説明しています。国立国会図書館は「命名については諸説あるが」と断ったうえでこの説が有力だとし、板垣退助が「角觝尚武館」を提案したものの決まらず、最終的に協会年寄に一任された経緯を伝えています。

つまり「相撲は昔から国技だった」のではなく、建物の名前がきっかけで「国技」という認識が広まっていったというのが、有力とされる説明です。

度重なる焼失とストライキ

国技館は災難続きでした。1917年(大正6年)に失火で全焼、1920年(大正9年)に再建されたものの、1923年(大正12年)9月の関東大震災で再び焼失しています。

力士側からの待遇改善要求も相次ぎました。1911年(明治44年)の新橋倶楽部事件では、関脇以下十両以上の力士54名が独立興行をめざして新橋倶楽部に籠城し、そこに土俵を作って稽古を始めます。この事件によって引退力士への養老金支給の道が開かれました。1923年(大正12年)1月の三河島事件では、力士側が養老金の倍額などを要求して籠城。警視総監の調停で9日で解決し、養老金捻出のため次の夏場所から日数を1日増やして11日間興行となりました。ただし要求した改革はほとんど実行されず、のちの春秋園事件に尾を引くことになります。

日本相撲協会の成立

財政難などを背景に東西合併の機運が高まり、1925年(大正14年)12月28日、財団法人大日本相撲協会が文部省の認可を受けて成立します。この年、摂政宮(のちの昭和天皇)から下賜された金一封で優勝摂政杯(のちの天皇杯)を作った東京大角力協会が、その栄光を共有するという大義名分をもって大阪側に迫ったことが、合併を後押ししました。

東西合併の土俵は1927年(昭和2年)1月場所から実現し、関西場所を春秋二場所開催するため、年4場所興行となりました。

昭和から現在 ― 制度の整備と国際化

ルールも日程も、今の形に固まったのは戦後です。

土俵とルールが整う

  • 1928年(昭和3年)1月 仕切時間の制限(当初は幕内10分、十両7分、幕下5分)と仕切線を設定。ラジオの実況中継が始まる
  • 1931年(昭和6年)4月 土俵の直径を13尺から15尺(4.55m)に広げ、二重土俵を一重に改める
  • 1932年(昭和7年)1月 春秋園事件。関脇・天竜と大関・大ノ里の呼びかけで、西方幕内20名・十両11名らが品川大井町の中華料理店「春秋園」に立てこもり、十ヶ条の要求書を突きつける。要求が通らないとみるや新興力士団を結成して協会を脱退した。これを機に、同じ系統の部屋同士だけ対戦しない「一門系統別総当たり制」が導入される
  • 1937年(昭和12年)5月 13日間興行に
  • 1939年(昭和14年)5月 15日間興行に

なぜ仕切時間に制限がついたのか。 それまで仕切りに時間制限がなく、長引くことがあったためです。制限はその後も段階的に短くされ、1950年(昭和25年)9月の短縮で、現行の幕内4分・十両3分・幕下2分になりました。

戦争と復興

1944年(昭和19年)に国技館は軍部に接収され、1945年(昭和20年)3月の空襲で被災します。同年11月、被災した国技館で戦後初の本場所が晴天十日間で行われました。このとき土俵を15尺から16尺に広げましたが、力士会の反対で一場所限りで15尺に戻しています。12月には占領軍に接収されました。

戦後の主な出来事を並べます。

  • 1946年(昭和21年) 夏場所が中止。日本経済新聞によれば、旧国技館の改修工事が遅れたためで、これがのちに「本場所中止の前例」として参照されることになる
  • 1947年(昭和22年) 殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞(さんしょう=幕内力士の活躍をたたえる3つの賞)を設定
  • 1950年(昭和25年)1月 蔵前仮国技館で15日間興行。5月に横綱審議委員会を設置
  • 1952年(昭和27年)9月 四本柱を撤廃し、代わりに吊屋根(つりやね=土俵の上に吊られた屋根)と四色の房を下げる
  • 1953年(昭和28年)5月 テレビの実況中継放送が始まる
  • 1954年(昭和29年)9月 蔵前国技館が開館。同時に相撲博物館も開館

年6場所制になるまで

1953年(昭和28年)に初・春・夏・秋の四場所となり、1957年(昭和32年)に九州場所(11月)を設けて年5場所、1958年(昭和33年)に名古屋場所(7月)を設けて年6場所制になりました。今の日程はここで確定します。

この時期にまとめて改革が進んだのには理由があります。 国立国会図書館によれば、1957年(昭和32年)3月2日の衆議院予算委員会で、茶屋制度や公益法人としての協会の体質が問題視されました。同年5月に時津風理事長(元横綱双葉山)が就任し、組織・機構・運営の改革が次々に実行されます。この改革によって力士が「サラリーマン」となり、明治の新橋倶楽部事件以来くり返されてきた生活保障の問題に、ようやく答えが出ました。

同年10月には相撲教習所が設置され、新弟子の育成が制度化されます。現在も、新しく登録された力士を6か月間指導教育する施設として続いています。

協会の名称も変わりました。日本相撲協会の事業報告書には「昭和32年12月1日 財団法人 日本相撲協会へ名称変更」と記載されています。

部屋別総当たり制はなぜ導入されたか

1965年(昭和40年)1月場所から、部屋別総当たり制が導入されました。それまでは親子・兄弟関係にある部屋同士の対戦が組まれませんでした。

相撲博物館の解説によれば、導入の背景には昭和39年ごろの人気低迷があり、打開策の一つとして時津風理事長の主導で移行が決まりました。ねらいは、新しい取組が増えること、そして対戦相手の不均衡を解消することです。分家関係にある部屋は一緒に稽古し、地方場所では同じ宿舎で生活する「同じ釜の飯を食う」仲だったため、力士には「相撲を取りにくい」という気持ちもあったようですが、ファンの好評を得て定着しました。

1969年(昭和44年)には、勝負判定の参考資料としてVTRが使われるようになります。

両国国技館へ

1985年(昭和60年)1月、両国に新しい国技館が開館しました。国技館が両国に戻ったことになり、国立国会図書館の数え方ではこれが5代目にあたります。現在の定員は11,098人です。

国際化

  • 1972年(昭和47年)7月16日 名古屋場所千秋楽で、東前頭4枚目の高見山が旭国を破って13勝2敗とし、外国出身力士として初めて幕内優勝を果たす
  • 1993年(平成5年)3月 米国ハワイ出身の曙が第64代横綱に昇進。外国出身では初の横綱
  • その後、武蔵丸(第67代、ハワイ)、朝青龍(第68代、モンゴル)、白鵬(第69代、モンゴル)らが続く

人数の管理も行われてきました。国立国会図書館の年表によれば、1992年(平成4年)に外国人力士を協会全体で40人に制限し、2002年(平成14年)に一部屋につき一人までと改められています(すでに在籍している力士は規定の対象外)。

不祥事と法人格の変化

2011年(平成23年)2月、八百長問題を受けて日本相撲協会は3月の春場所中止を決めました。日本経済新聞によれば、本場所の中止は1946年夏場所以来65年ぶりで、不祥事によるものとしては初めてでした。

2014年(平成26年)1月28日、日本相撲協会は内閣府から公益財団法人への移行の認定を受けます。協会の事業報告書には「平成26年1月30日 公益財団法人 日本相撲協会へ移行」と記されています。

女性と土俵をめぐる問題

2018年(平成30年)4月、京都府舞鶴市の巡業で、土俵上で倒れた市長の救命に客席から駆けつけた看護師をはじめとする女性たちに対し、行司が土俵から下りるよう場内アナウンスを繰り返しました。

同月28日、八角理事長は談話を発表して謝罪し、「大相撲は、女性を土俵に上げないことを伝統としてきましたが、緊急時、非常時は例外です。人の命にかかわる状況は例外中の例外です」と明言しました。

あわせて、あいさつや表彰でも例外としないのはなぜかについて、協会が公益財団法人となった今、説明する責任があると述べています。談話は、歴代の理事長や理事が挙げてきた3つの理由を紹介しています。「第一に相撲はもともと神事を起源としていること、第二に大相撲の伝統文化を守りたいこと、第三に大相撲の土俵は力士らにとっては男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場であること」です。そのうえで、第一の「神事」を女性を不浄とみる神道の考え方と結びつける解釈は誤解であるとし、多くの親方の胸の中心にあったのは第三の理由だったと思う、と述べています。最後に、再度の意識調査と外部の意見聴取を行って検討したいと表明しました。

新型コロナウイルスの影響

2020年(令和2年)の事業報告書には、次の対応が記録されています。

  • 五月場所(東京)を開催中止(第1回緊急事態宣言への対応)
  • 三月場所(大阪)を無観客開催
  • 七月場所(名古屋)、十一月場所(福岡)を東京で開催
  • 巡業は春・夏・秋・冬とも中止(夏は五輪開催に対応し当初から中止の予定だった)
  • 七月場所以降、入場者数を制限(七月・九月は約2,500人、十一月は約5,000人)

現在(2026年時点)

本場所は年6回、各15日間。2026年(令和8年)の会場は、一月・五月・九月が両国国技館、三月がエディオンアリーナ大阪、七月がIGアリーナ、十一月が福岡国際センターです。名古屋場所は2025年(令和7年)からIGアリーナで開催されるようになりました。

2025年(令和7年)は財団法人設立100周年にあたり、10月15日から19日にかけて、20年ぶりの海外公演がロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われています。同年12月31日現在の協会員は、年寄105人、力士598人、行司43人、若者頭6人、世話人10人、呼出44人、床山44人の計850人。これに事務局職員61人を加えた総合計は911人です。

横綱は第74代豊昇龍(2025年3月〜)と第75代大の里(2025年7月〜)の2人です。

年表

確定した史実と、伝承・諸説のあるものが混ざっています。神話・伝承にあたるものには印を付けました。

出来事
『日本書紀』垂仁天皇7年7月7日条に野見宿禰と當麻蹶速の対戦(※神話・伝承)
728年(神亀5) 聖武天皇が諸国の郡司に相撲人の推挙を命じる
734年(天平6) 7月7日の相撲天覧。相撲節会の端緒とされる
810〜824年(弘仁年間) 相撲節として恒例化
1174年(承安4) 相撲節会が最後に行われたとされる
1570〜92年(元亀・天正年間) 織田信長が安土城などで上覧相撲を催す
1684年(貞享元) 江戸・深川八幡宮で勧進相撲が許可される
1757年(宝暦7) 縦一枚の番付が誕生。10月の江戸相撲番付が現存最古
1778年(安永7) 以後、興行日数が「晴天十日間」に
1789年(寛政元) 谷風梶之助と小野川喜三郎がはじめて横綱土俵入りを披露
1791年(寛政3) 将軍徳川家斉の上覧相撲
1833年(天保4) 回向院が定場所となる
1869年(明治2) 版籍奉還により大名抱えの力士が抱えを解かれる
1871年(明治4) 散髪脱刀令。このころから相撲不要・廃止論が起こる
1876年(明治9) 『朝野新聞』に「相撲ヲ禁ズベキノ論」。力士消防別手組を設置
1878年(明治11) 警視庁が取締規則を発布。相撲興行が事実上公認となる
1884年(明治17) 3月10日、延遼館で明治天皇の天覧相撲(4回目)。人気回復のきっかけに
1889年(明治22) 相撲会所が東京大角力協会に改称
1890年(明治23) 5月場所の番付に初めて「横綱」の文字が記される
1897年(明治30) 大阪角力協会が発足
1909年(明治42) 6月2日、両国に国技館が開館。横綱が地位として協会規則に明文化される
1911年(明治44) 1月、新橋倶楽部事件。引退力士への養老金支給の道が開かれる
1917年(大正6) 国技館が失火で全焼(1920年に再建)
1923年(大正12) 1月、三河島事件(11日間興行に)。9月、関東大震災で国技館が再度焼失
1925年(大正14) 12月28日、財団法人大日本相撲協会が設立される
1927年(昭和2) 東京・大阪の両協会が合併。年4場所興行に
1928年(昭和3) 仕切時間・仕切線を設定。ラジオ実況中継が始まる
1931年(昭和6) 4月、土俵を直径13尺から15尺(4.55m)に。二重土俵を一重に
1932年(昭和7) 春秋園事件。一門系統別総当たり制へ
1937年(昭和12) 5月場所から13日間興行
1939年(昭和14) 5月場所から15日間興行
1944年(昭和19) 国技館が軍部に接収される
1945年(昭和20) 3月、空襲で国技館被災。11月、戦後初の本場所(晴天十日間)。12月、占領軍が国技館を接収
1946年(昭和21) 夏場所が中止(旧国技館の改修工事の遅れによる)
1947年(昭和22) 殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞を設定
1950年(昭和25) 1月、蔵前仮国技館で15日間興行。5月、横綱審議委員会を設置。9月、仕切時間が現行の長さに
1952年(昭和27) 9月、四本柱を撤廃し吊屋根と四色の房に
1953年(昭和28) 初・春・夏・秋の四場所に。5月、テレビ実況中継が始まる
1954年(昭和29) 9月、蔵前国技館と相撲博物館が開館
1957年(昭和32) 3月、衆議院予算委員会で協会の体質が問題に。5月、時津風理事長就任。10月、相撲教習所設置。11月、九州場所を設け年5場所制に。12月1日、財団法人日本相撲協会に改称
1958年(昭和33) 7月、名古屋場所を設け年6場所制に
1965年(昭和40) 1月場所から部屋別総当たり制を実施
1969年(昭和44) 勝負判定にVTRを参考資料として使用
1972年(昭和47) 7月16日、高見山が外国出身力士として初の幕内優勝
1985年(昭和60) 1月、両国国技館が開館
1992年(平成4) 外国人力士を協会全体で40人に制限(2002年に一部屋一人までに改正)
1993年(平成5) 3月、曙が外国出身者として初の横綱(第64代)に
2011年(平成23) 八百長問題により3月の春場所が中止
2014年(平成26) 1月28日に公益財団法人への移行認定、1月30日に移行
2018年(平成30) 舞鶴市の巡業での対応を受け、理事長が謝罪談話を発表
2020年(令和2) 新型コロナで三月場所が無観客、五月場所が中止
2025年(令和7) 財団法人設立100周年。名古屋場所がIGアリーナで開催。10月にロンドン公演

もっと知りたい人へ ― 調べ方のヒント

この記事は、なるべく一次資料に近いものを使って書きました。自分でさらに調べたい人のために、入口を紹介します。

日本相撲協会の公式サイトには、「相撲の歴史」「協会のあゆみ」「協会の使命・組織」「歴代横綱」といったページがあります。事業報告書のPDFも公開されており、設立年月日や本場所の日程、力士・協会員の人数といった数字はここで確認できます。数字の裏を取るなら、まずここです。

相撲博物館(両国国技館1階)は、過去の企画展の解説文をウェブで公開しています。展示品ごとの解説が詳しく、年代や寸法の根拠を確かめるのに便利です。展示室が1室のため常設展示ではなく、年3回の企画展示という形をとっています。開館日や時間は本場所の日程などによって変わるため、公式サイトのスケジュールで確認してから行くのが確実です。

国立国会図書館は、リサーチ・ナビの「相撲について調べるには」で、事典・概説書・名鑑・専門雑誌を紹介しています。過去の常設展示「国技・相撲 ―近代以降の事件と名力士―」のPDFには近代以降の年表が付いており、この記事でも多く参照しました。

注意しておきたいこと。 相撲の歴史はファンの層が厚く、ウェブ上には熱心にまとめられた記事がたくさんあります。ただし、出典が示されていない年号や寸法も少なくありません。数字を引用するときは、協会・博物館・図書館・新聞社のいずれかまでたどるようにすると、安心して使えます。

そしてもう一つ。公的な資料どうしでも食い違うことがあります。 たとえば「財団法人日本相撲協会」への改称年は、協会の事業報告書では1957年、国立国会図書館の年表では1958年です。1884年の天覧相撲の会場も、資料によって書き方が違います。食い違いに気づいたら、どちらかを消すのではなく「両方あることを書いておく」のが、いちばん誠実な扱い方だと思います。

このページに出てきた言葉

相撲節会すまいのせちえ
奈良時代から平安時代にかけて宮中で行われた年中行事で、諸国から集めた相撲人の相撲を天皇が観覧した。
相撲人すまいびと
相撲節会のために諸国から召し集められた、相撲を取る人のこと。
立合たちあわせ
相撲節会で相撲人を立ち合わせた進行係。左近衛・右近衛から2人ずつ出た。勝負を裁く役ではない。
勧進相撲かんじんずもう
もとは寺社の建立や修復の資金を集めるために行われた相撲興行。日本相撲協会は、やがて勧進は名目となり力士の生計を支える興行に変わったと説明している。
辻相撲つじずもう
江戸時代前期、野原や町の辻など決まった場所以外で行われた相撲。喧嘩や騒動が多く、幕府がたびたび禁令を出した。
番付ばんづけ
力士の順位を書き並べた一覧表。今のような縦一枚の形になったのは1757年(宝暦7年)とされる。
張出はりだし
かつての番付で、定員からあふれた力士を枠の外側に書いた位置。1890年に西ノ海が張出にされたことが、番付に「横綱」と書かれるきっかけになった。
土俵どひょう
俵で円を作った相撲の勝負場。江戸時代前期に成立したとされ、現在の直径は15尺(4.55m)。
四本柱しほんばしら
かつて土俵の四隅に立ち、屋根を支えていた柱。1952年(昭和27年)9月に撤廃された。
吊屋根つりやね
四本柱の代わりに、土俵の上に天井から吊るされた屋根。四隅には四色の房が下がる。
土俵入りどひょういり
取組の前に力士が土俵に上がって行う儀式。横綱が単独で行うものを横綱土俵入りという。
化粧廻しけしょうまわし
土俵入りで力士が締める、刺繍などで装飾された前垂れ状の廻し。江戸時代のものが現存している。
横綱よこづな
力士の最高位。江戸時代には免許・称号で、番付上の地位として協会規則に明文化されたのは1909年(明治42年)。
弓取式ゆみとりしき
その日の最後の取組のあと、力士が弓を振って行う儀式。相撲節会の立合舞が起源だという説があるが、確定していない。
上覧相撲じょうらんずもう
将軍が観覧する相撲。江戸時代には力士にとって大変な名誉とされた。
天覧相撲てんらんずもう
天皇が観覧する相撲。1884年(明治17年)の延遼館での天覧相撲は、明治期の人気回復のきっかけになった。
水入りみずいり
取組が長引いて決着がつかないとき、いったん中断して力士を休ませること。再開時は元の体勢に戻す。
櫓太鼓やぐらだいこ
興行を知らせるために櫓の上で叩く太鼓。江戸の回向院では早朝4時ごろ、関取の場所入り、打ち出し後の3回叩かれた。
回向院えこういん
東京・両国にある寺。江戸時代後期の相撲興行の定場所で、1909年の国技館もこの境内の一画に建てられた。
行司ぎょうじ
取組を進行させ勝負を判定する役。平安時代の相撲節会にはこの役はなく、江戸時代の伝書が起源を平安時代に置くのは誤りとされる。
幕内まくうち
力士の階級のうち最上位の区分。横綱・大関・関脇・小結・前頭からなる。
十両じゅうりょう
幕内のすぐ下の階級。十両以上が「関取」と呼ばれ、給与が支給される。
三賞さんしょう
幕内力士の活躍をたたえる殊勲賞・敢闘賞・技能賞の3つの賞。1947年(昭和22年)に設けられた。
本場所ほんばしょ
番付や給与に反映される正式な興行。現在は年6回、各15日間行われる。
巡業じゅんぎょう
本場所の開催地以外の各地を回って行う興行。年間を通じて春・夏・秋・冬に実施される。
年寄としより
引退した力士などが名跡を襲名し、協会の運営や部屋の経営にあたる役。2025年12月31日現在で105人。
一門系統別総当たり制いちもんけいとうべつそうあたりせい
同じ系統の部屋どうしだけ対戦を組まない方式。1932年の春秋園事件を機に導入され、1965年に廃止された。
部屋別総当たり制へやべつそうあたりせい
同じ部屋の力士どうしを除いて対戦を組む方式。1965年(昭和40年)1月場所から実施された。

確かめきれていないこと

このページを作るときに、出典で裏を取りきれなかった点や、資料によって説が分かれる点です。 隠さず書いておきます。

  • 【修正】明治天皇の天覧相撲の会場を「芝離宮の延遼館」としていましたが、「芝離宮」を削りました。延遼館は浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)に建てられた施設です。国立国会図書館の本文は「芝離宮延遼館」、同じ資料の年表は「芝浜離宮延遼館」と書いており、資料内部で表記が揺れています。相撲博物館が所蔵する当時の錦絵の題は「御濱延遼舘於テ天覧角觝之図」で、浜御殿を指します。本文では所在地を浜御殿と書きましたが、公的資料に食い違いがあることは付記しておきます。
  • 【修正】野見宿禰が折った部位を「脇骨(腰骨)」と書いていましたが、脇骨(あばら骨)と腰骨は別の場所です。相撲博物館は野見宿禰神社のページで「脇骨を踏み折って殺した」、展示解説では「腰骨を折って勝利した」と書いており、『世界大百科事典』は「肋骨、腰を踏みくじいて」としています。資料によって幅があるため、断定せず併記する形に改めました。
  • 【修正】相撲節会の会場を「多くの場合、紫宸殿の南庭」と書いていましたが、今回参照した協会・博物館・事典類では確認できなかったため削除しました。相撲博物館の「相撲節会図」解説にも、天皇が御簾の中で観戦したとあるだけで殿舎名の記載はありません。
  • 【修正】相撲節会が「院政期に停止と再興を繰り返し、やがて途絶えます」としていた部分を削りました。ブリタニカ国際大百科事典は1174年(承安4年)まで続いたとするのみで、停止と再興の経緯は今回の出典では確認できませんでした。
  • 【修正】「日本相撲協会の前身ができたのは1925年」を「今の日本相撲協会が法人として発足したのは1925年」に改めました。協会の事業報告書は設立年月日を大正14年12月28日とし、1957年の名称変更・2014年の公益財団法人移行を同一法人の経緯として記載しています。「前身」は1889年の東京大角力協会や江戸から続く相撲会所を指す語として使うほうが正確です。
  • 【修正】新橋倶楽部事件の参加者を「関脇以下の力士54名」としていましたが、国立国会図書館の記述は「関脇以下十両以上54名」です。あわせて、独立興行をめざして籠城したという目的を補いました。
  • 【修正】1946年(昭和21年)夏場所中止の理由を補いました。日本経済新聞の2011年の記事は「旧国技館改修工事が遅れた1946年夏場所」と理由を明示しています。原稿の「記録上、最初の本場所中止とされる」という表現は出典で確認できなかったため差し替えました。
  • 【削除】「日中戦争が始まると、番付の四股名の上に『応召』『入営』と冠されるようになりました」という記述を削りました。国立国会図書館の展示資料をはじめ、今回参照した公的資料では裏付けが取れませんでした。
  • 【削除】相撲博物館について「入館は無料ですが、東京本場所の期間中は観覧券が必要です」という記述を削りました。日本相撲協会の相撲博物館関連ページ(TOP・概要・スケジュール)に入館料の記載を見つけられなかったためです。開館日時が本場所日程で変動することは確認できたので、その点のみ残しました。
  • 【修正】原稿の不確実事項にあった「初代横綱の第2代・第3代についても同様の疑問符が付いています」は誤りでした。日本相撲協会の「歴代横綱」一覧で疑問符が付いているのは初代・明石志賀之助(栃木県宇都宮市?)と第2代・綾川五郎次(栃木県栃木市?)で、第3代・丸山権太左衛門は「宮城県登米市」と疑問符なしで記載されています。
  • 【解決】原稿が不確実としていた協会員の内訳は、令和7年度事業報告書で確定できました。令和7年12月31日現在、年寄105人、力士598人、行司43人、若者頭6人、世話人10人、呼出44人、床山44人の計850人、事務局職員61人を加えて総合計911人です。
  • 「財団法人日本相撲協会」への改称年について、協会自身の事業報告書は昭和32年(1957年)12月1日としていますが、国立国会図書館の資料は本文・年表とも昭和33年(1958年)としています。本文では協会の資料を採用しました。
  • 相撲節会が終わった年について、ブリタニカ国際大百科事典は1174年(承安4年)で「三百数十年間続いた」としますが、日本相撲協会の公式サイトは「300年続く」と書いています。数え方で説明が変わります。
  • 谷風・小野川への横綱免許について、吉田司家が関与したとする説がよく語られますが、今回参照した協会・博物館・国立国会図書館の資料ではその経緯を確認できなかったため、本文には書いていません。
  • 15日間興行が恒久的に定着した年は特定できませんでした。1939年(昭和14年)5月に15日間興行が始まったこと、戦中戦後に日数が変動したこと(1937年5月に13日間、1945年11月は晴天十日間)、1950年(昭和25年)1月の蔵前仮国技館の場所が15日間だったことまでは確認できていますが、その間の各年の場所数・日数は今回の出典では追えていません。
  • 1952年(昭和27年)の四本柱撤廃について、テレビ中継との関係を指摘する説明を見かけますが、協会の資料には理由が書かれていません。撤廃は1952年9月、テレビの実況中継開始は1953年5月で、撤廃のほうが先です。因果関係は本文に書いていません。
  • 「国技」という呼称に法令上の定義があるかどうかは確認できませんでした。国立国会図書館は、この認識の起こりが1909年の国技館開設にあるとする説が有力だと説明しており、命名の経緯についても「諸説あるが」と断っています。本文はその範囲にとどめています。
  • 初代横綱・明石志賀之助については、国立国会図書館が「実在が不明」とし、協会の歴代横綱一覧も出身地に疑問符を付けています。
  • 土俵が成立した正確な年は特定できませんでした。相撲博物館は「江戸時代前期」とし、菱川師宣が1661〜1680年ごろに描いた絵に俵が見えることを根拠の一つとしています。
  • 谷風・小野川・雷電の身長体重は相撲博物館の展示解説の数値ですが、江戸時代の測定方法は現在と異なるため、おおよその値として本文に注記しました。原資料や算出方法までは確認できていません。
  • 女人禁制がいつ、どのような経緯で始まったかについては、今回の調査では出典を特定できませんでした。本文では2018年の理事長談話が示した協会側の説明のみを紹介しています。
  • 相撲節会に「年占の神事」と「服属儀礼」の両面があったとする説明は百科事典マイペディアによるものです。学説上の位置づけや異説の有無までは今回確認していません。

出典

  1. 日本相撲協会「相撲の歴史」
  2. 日本相撲協会「協会のあゆみ」
  3. 日本相撲協会「協会の使命・組織」(定款に定める目的)
  4. 相撲博物館「相撲の神様を祀る 野見宿禰神社」
  5. 相撲博物館「相撲博物館について」
  6. 相撲博物館 展示紹介「七夕と相撲」(2018年)
  7. 相撲博物館 展示紹介「『大相撲』の幕開け―土俵・番付・化粧廻しの誕生―」(2018年)
  8. 相撲博物館 展示紹介「雷電為右衛門と寛政の大相撲」(2018年)
  9. 相撲博物館 展示紹介「明治時代の大相撲」(2018年)
  10. 相撲博物館 展示紹介「部屋別総当たり制導入50年『昭和40年1月場所』」(2015年)
  11. 日本相撲協会「国技館のご案内」(定員11,098人)
  12. 日本相撲協会「本場所の年間日程表」
  13. 日本相撲協会「歴代横綱」
  14. 日本相撲協会「理事長談話」(平成30年4月28日)
  15. 公益財団法人日本相撲協会 令和7年度 事業報告書(PDF)
  16. 公益財団法人日本相撲協会 令和2年度 事業報告書(PDF)
  17. 国立国会図書館 第153回常設展示「国技・相撲」―近代以降の事件と名力士―(PDF)
  18. 国立国会図書館 NDLイメージバンク コラム「江戸っ子の娯楽・相撲」
  19. 国立国会図書館 リサーチ・ナビ「相撲について調べるには」
  20. 衆議院「公益財団法人日本相撲協会への政府の評価に関する質問主意書」(第195回国会 質問第67号)
  21. 日本経済新聞「大相撲春場所中止へ 八百長問題で協会方針」(2011年2月6日)
  22. 日本経済新聞「1972年7月16日 高見山が外国人力士初V、米大統領の祝辞に感涙」
  23. コトバンク「節会相撲」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
  24. コトバンク「相撲節会」(世界大百科事典 旧版:行司/野見宿禰/弓取式の項)
  25. コトバンク「相撲節」(百科事典マイペディア)